伝統とは、受け継ぐとは、そして、どう、受け継ぐか。わたし、わたしたちはどう生きるべきか:赤坂
▪梅雨空の下、電車で
この日は梅雨らしく、降ったりやんだりを繰り返す、不安定な土曜日だった。それでも朝降り出した雨は、旅するトークが始まる頃には落ちついていて、しずかな曇り空の下に風が吹き抜ける駅のホームで、わたしは今日はじめて訪れる神社のことを考えた。
赤坂氷川神社。古くからあるこの神社が、今回のイベントの会場だ。
赤坂という都会の地に古くから連綿として続く、ひとつの神社。わたしはそれだけで、江戸の町人が参拝する様子やこの雨の中の神社のたたずまいを想像した。なんてロマンあふれる場所だろう、とわくわくした。
期待だけでなくどきどきして仕方がないのは、これが初めてのライターの仕事だったからだ。わたしはライターになりたい。それも、現地での人々の対話と情景描写と、そこから浮かび上がるトーリーを書きたい。それを叶える場を探して、わたしはこの旅するトークという企画と出会った。
けれど、初めての取材、初めて出会う人々、初めて向かう街と「初めて」が重なって、どうしても緊張してしまう。本当は楽しみなのに、心のなかでは不安と緊張と期待がごちゃ混ぜになっていた。
都心に近づくにつれて、はじめに広がっていた真っ白な厚雲が、黒い雲に変わって空を停滞していることに気づく。雨が降るのだろう。そして、特別なことが起ころうとしている。電車の中で、わたしはそんなことを思った。
▪駅を出て、坂をゆく
赤坂駅、6番出口から外に出ると、見慣れたチェーン店やコンビニがあって、少し安心した。もっとビルだらけなのかもしれないと思っていた当てが、外れたからだ。すぐに大通りをそれ、雨に濡れて黒光りする暗い道を進む。
現在地の前後が真逆に表示されるグーグルマップに頼って、スマホを逆さに持って進んでゆく。道のところどころに植えられたアジサイが綺麗だ。一度下っては少し進んで、坂道をゆっくり上っていく。
細い上り坂を抜けると、広い道路になった。
神社の近くについたが、どうやら裏口にでてきてしまったようだ。勝手口のようなところから、神社の後姿を見渡しながら入っていく。
明るい日差しがやわらかに神社を照らしている。木々が緑をたくわえて、綺麗だった。
それから本殿の右にある、新しく、それでいてしとやかな感じのある社務所に入った。穏やかに微笑む巫女が、畳を歩くようにすすすと移動して、まずは小部屋に案内してくれた。
それからほどなくして、広間に案内された。そこが今回の旅の会場だった。
▪社殿の中は自然と同じ空気が流れる
14:00を回って、禰宜の惠川義孝さんが登場した。淡い緑色の装束を身に着けた、おだやかそうな人だった。わたしたちはまず、御社殿を案内されることになった。
一礼して中へ進むと、美しい絵が四角に収められている天井が目に入り、見上げずにはいられなかった。そのうつくしさに、つい胸を打たれてしまう。
御社殿内部は外からの自然光と奥を照らす暖色光がまじりあって、うつくしい。
この神社は質素倹約なつくりとなっており、写真に写る壁画や天井画は、創建当時はなく、後に狩野派の絵師により奉納されたものだそうだ。
御社殿は江戸時代に創建されたもので、安政の大地震や関東大震災、東京大空襲に襲われながらも生き残ってきた。そしてその姿を、できるだけ変えずに残している。
自然の気温や四季の空気感をそのまま御社殿の中でも感じるという伝統を変えないために、エアコンを導入しないという。このスタンスに、惠川さんの中に神社のあるべきすがたが存在しているように思えた。
▪山車の修繕、勝海舟の書
つぎに展示室を見ることになった。そこには、歴代将軍の朱印状、勝海舟の書や、山車の写真が展示されていた。
山車は、江戸から明治に移り変わる時期に、電線の関係などにおいて祭りで用いるのは山車ではなく神輿になった。山車は修復するのが難しく、時間や資金が沢山必要になる。しかし、行政の協力によって、9つある山車は修復されることになった。
▪神様にささげる音
会場広間にもどって、パンフレットをもちいた説明がなされたあと、雅楽の鑑賞の時間になった。
待っていると、ふいに、廊下から音が流れ出した。
突如として、迫力と神事を思わせる神聖性と崇高な気が、会場を包み込んだ。廊下では何人が楽器を奏でているのだろう、と耳を澄ませたが、姿を現したのは、たった三人の奏者だった。
赤坂氷川神社の神前式では神職の雅楽を必須にしており、ここでも三人の神職のかたが演奏してくださった。
▪その人生
旅するトークのメインイベント、惠川さんのストーリーがはじまった。そのあとで「あまり人前でしゃべるのは得意でない」と仰ったが、その語り口は先ほど聴いた雅楽のように流暢で、心地良いものだった。
次男として、一般の大学、一般の企業に進んだ惠川さんは、会社がとても好きだったのだという。自分は家業とは関係ないと思い働いていた惠川さんは、兄の突然死によって、突然神職を継ぐことになった。神意だと思い、継ぐと決めたものの、決心するまでに大きな葛藤があったとも仰っていた。
どうしてそんな、無情なことが起きるのだろう。そのときまで学び働きつづけたすべてが、一瞬にしてそのときまでにとどまり、「それ以降」がなくなってしまった人生。
弟のいる私にとってはどちらかというと、亡くなった兄の惠川義弘さんの思いに引きずられる心地がした。「わたしが死んで、何か大切な物事を弟が引き継ぐことになったら」と考えると、弟が居てくれて有難いのに、どうしても悔しさと心配が滲む。
現・禰宜の惠川義孝さんが決意したことと、それ以降を託さざるを得なかった兄の惠川義弘さん。ふたりの心情は言葉にできない。
生前、兄の惠川義弘さんも一般の大学に入り、規模の小さかった神社を盛り上げようと、結婚式やお祭りを運営することで神社に関わる人を増やしてきた。その活動に対する姿勢は、惠川さんは遺志を継ぐということを使命だと思って神社を経営しているのだという語りに、はっきりと表れていた。
▪神社のあるべきすがた