AETE あの人がいるから旅したくなる。アエテ

19年度編集長
早川 遥菜

ハンバーグが大好きと公言していますが、 「母の作る」ハンバーグが大好きなのです。 気持ちに素直な人であり続けるために、 今日も沢山の物語に出会います。

2022.07.23

Yet21~孤独が見つけた居場所~

会えて report


Yet21~踊り場のわたしたち~」は、たくさんの21歳体験記を集める読者参加型企画です。

自分の今までを見つめなおし、これからを考える、まさに「人生の踊り場」のような時期である21歳。
その物語をAETEに集めることで、選択や葛藤の渦中にいる誰かの救いになったり、そっと背中を押したりできないかという想いから生まれました。

人の数だけある21歳の物語。まずは編集部の物語から発信していきます。
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掃除、洗濯を済ませ、昼食に使ったお皿を片付けた後、家の中で一番お気に入りの窓辺に座って部屋を見渡す。
東京に来て7年。上京して最初に住み始めた学生寮の6畳一間から1Kへ、そして今年の春からは恋人と2人暮らしを始め、坂を少し上った先にある、1LDKの部屋で暮らし始めた。
丈の短いカーテンをいつ買い換えようかと眺めながら、だけどこのままずっと買い替えないような気もしている。
最近の休日はこんな感じで、いつカーテンを買おうか、今日の夜ご飯は何にしようか、冷蔵庫に入った具材は何から使うべきか。なんの変化も起きないまま、今日も後半戦を迎えようとしている。
ふと、最近上司に勧められて読み始めた「スラムダンク」の単行本の山が目に入った。
バスケに熱中する彼らの熱くて儚い毎日に、羨ましくも、どこかで(あんなに辛く厳しい日々はもうこなせないよ)と諦める今の私。
儚くも熱く忘れられない、21歳の日々を思い出す。
たったの3年前の話なのに、自分を振り返ろうと見返した手帳や日記には、遥か遠く切なく、愛しい自分の姿があった。


なんとなく違う、なんとなく自信がない、なんとなく、違和感。
21歳になったばかりの私は1月、大規模な合同説明会の無料シャトルバスに揺られてそんなことを考えていた。
「なんとなく」の理由を、誰か教えてください。
悩みはあるはずなのに何を相談したら良いのかわからず、もやもやとした言葉は口に出す前に心に染みをつけて形を失う。染みは一度ついたら消えることはない。
きっと自分だけがその染みを取り除ける方法を知っている。でも今は、そんな私が導く答えにとにかく自信がないのだ。大学4年の春は、染みだらけの心を抱えていくしかない。
シャトルバスに乗り込むために40分並んだ大行列は最後の1人が私だった。
「ごめんなさいね、満席なので」と案内された補助席の薄い椅子に座った私は、他の就活生からの視線を集めないように、真ん中の席で小さく座っていた。慣れないスーツを早く脱ぎたい一心で、助けて、と小さく呟く。満杯のバスで感じた息苦しさは降車しても続いた。

それからも「なんとなく」就活を始めてみたけれど、「なんとなく」と感じたら結構でおールがいた。いわ不採用通知のことだ。

一番思い出いのは、バト先だったン屋の早番がわり、更衣室携帯いた3から不採用通知のールがいていた2月のことだ。
何となく落ちることはわかっていたのだけれど。でも、「あなたと一きたいです」と言ってくれた面接官を思いかべると、神様でさえも結果が見えないままに私をしているのだと思った。LINEく恋人からの根拠のない「大丈」だけが、当時の私を形取ってくれた。


落ち込むこともたくさんあって、私は就活を一度忘れることにした。
就活解禁日の31日、説明会の知が後をたないなか北海道かった。同生たが就活サイトにみ入れるなか、の大運ぶことはどこか可笑しくて自微笑んでしまう。
北海道ではーン先の会主催するイベントの手いをすることになっていた。1人でに乗り、先で社長合う。
知の場所で知っている人に会うのは心がって心よかった。そうして「っとした」思いをするのはりであることに気く。そうか、就活も同じだ。
知の世界を生きる21歳、知の場所で心よさを知る北海道
りに大きく息をう。北海道の大きくて新鮮だった。

イベント会には、山の人でれていた。札幌り上ようと物作りや食へ思いせる、6の方の物語。それから、物語共有し合おうとやってくる山のスト。みんな、はじめましての人ただ。
合同説明会の、アジェンダに沿ってめられる大衆用の説明フレよりも、の小さなで、今日も誰かのためにーをれたり、したり、込んだりする彼らの自由な物語くことで、いつか染み付いて取れなかった心の染みが消えっていくのに気く。
彼らやストとごす数時間。面接間と変わらないくらい短い間だったけれど、きなことを共有し合うことで、「あなたと一きたいです」とえてくれた面接官も、私は彼らに自分の素直な気持ちえることができた。
の大で感じたこと。
私は彼らのいがわるを、自ら生み出せるような人になりたい。
就活がわった。そして、AETE戦が始まった。


そして始まった1からのメディアづくりはわからないことだらけ。
21歳、AETEのお披露目会を実施することになった。
初めて担当する企画だった。参加者開催場所も内も、これまた1からの戦だった。
誰かをき込む企画には責任う。これまで学生の私が見つめていた、真っすで無いだけでは上手くいかないことを感する日々。
誰にけたいのか、提供できる価値は何か、現状課題改善点広げるためのHOWTO
就活がわっても、自分が何をえたいのかわからないまま月日がれるばかりで、自分土台る大切なであると分かっているからこそ、尚更焦るばかりだった。
に大切にしたかったのは、「私がり上るものだからできること」。
私はとにかく無だった。再び答えのない迷路に入り込んだたすら絶望していた。

準備も最終確認のみとなった前日、私はこれまで物語いだ山の人々のを思いべながら、に出来上がっていた50近いレポートをもう一度、一からて読みしてみた。
これまで私の中をしてくれた彼らの物語が一つ一つ明にってくる。
21歳の私はかに無かもしれない。だけど人生の先である彼らから物語いだ私はいもの知らずだった。

素敵文章ですね」「しかったあの間を思い出しました」
「家内での地位向上に利用させていただきます
った料理は無くなってしまうけど、この気持ちはいつまでも無くならず、色鮮やかに私のにさせていただきます」
また、こんなくことができたら。
そしてこれから物語いでいく人がいるとすれば、物語しいということをもっと知ってしい。
ふといた夜のルバムくりは、早まで続いた。

披露目会日。
先で出会った人を始めとする山の人がメディア生をんでくれて、美味しい料理と大きな人にまれて、これまで私がみてきた景色を、自分の言葉をじて誰かにえることができた初めての経験だった。複数コミュニがるこの感覚達成感。そして、心よい居場所が出来たことへの心感。
彼らのいがわるを、自ら生み出せるような人になりたい。
これからも、AETEを大切にしよう。


かった自分は今も変わらないけれど、あのの一つ一つの出会いが一つのメディアを生み出し、物語はこれからもたな物語を生み出すと信じて、今日もいでくれる人たがいる。
何がしかったなんかわからない。答えもきっと、神様だって知らないはず。
ただ変らない事実として、今私は、丈の短いカーテンからし込むけながら、自分の21歳とき合い文章っている。

「あきらめたらそこで終了ですよ」
そうですね、そうでした。まだまだ、私はいのだ。

この文章は、当時の私がった日記引用しながらりました。
21歳の私と、24歳の私の、共同合作。

AETE初代編集長:早川遥菜
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