AETE あの人がいるから旅したくなる。アエテ

2021.09.23

アエテ interview

『タビマチ』は、
どこかに活動拠点を持ち”旅やまちを彩る”お仕事をされている方々へ
歩んできた物語やまち・ひとへの想いを伺うインタビュー連載です。
彼らの物語や想いに触れ「会いたい!話してみたい!」と思ったら
次はあなたが素敵な人々がいる、あのまち、あの場所へ、旅をしてみて下さい。

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レザーバッグブランドLONAの革職人・青木さんが紹介してくれたのは、裏浅草にあるレザー工房兼レザークラフト教室であるQrinafの須川”バンディ”豊澄さんだ。
浅草駅を降り、浅草寺や言問通りの観光地を抜けると、急に静かな住宅街が現れる。違うのは、革靴屋さんや革屋さんが散見されるところ。ものづくりの街・浅草の表情が伺える。
工房の戸を開け、大きなワンちゃんの熱烈な歓迎を受けつつ、バンディさんと挨拶を交わした。

■ 好きなことをしたい。革との出会い。

本日はよろしくお願いいたします。LONAの青木様とはどういうお知り合いなのですか?

―共通の知り合いがいるんです。
10年越しの長い付き合いの先輩職人さんが、浅草の後輩職人として紹介してくれたのが青木さんでした。その方が青木さんの店に機材を運び入れた関係で知り合ったそうです。

まず初めに、革職人になるまでの道のり、簡単な経緯を教えていただきたいです。

―地元である三重県・伊勢で、調理器具と料理教室が一緒になった店をやりたいと思っていて、その勉強のために、27歳の時上京しました。
最初は合羽橋のような、料理道具街で働こうと思っていたんです。でも男の人だからという理由で、全部断られました。だから、とりあえずお金を稼ごうと、最初は築地の魚河岸で働き始めました。5年半くらい働いて、それはそれで楽しかったんです。けれど、こんなことをしに上京したのではないな、と思うようになりました。せっかく東京まで出てきたんだから、お金や生活のためでなく、自分の好きなことをしようって。
私はイタリアが好きなので、イタリア関係の仕事を探したんです。その中で、イタリアの鞄を輸入して販売している会社を知って。そこで働き始めたことが、革業界に入ったきっかけです。魚からいきなり革に転向したっていう(笑)
その頃は、自分がお店を持つことになるなんて、微塵も思っていませんでした。

■革に導かれて。

―この時はまだ鞄や革には全く興味がない状態でした。だから売る側として、鞄や革についてもっと伝えられたらと思い、それを学ぶために鞄教室を探し始めたんです。
たまたま見つけた教室に見学に行ったら、そこはみんなが黙々と作るような職人養成学校でした。これは違う、と思い、その時は断って帰ったんです。
その2、3日後に、本屋さんで立ち読みをしていたら、とある雑誌で「職人になる」特集をしていました。そこでぱっと開いたのが「鞄職人になる」というページ。運命を感じました。
しかも、記事で紹介されていた鞄職人を学ぶための場が、先ほどの学校だったんです。そして、ちょうどこの時、働いていたイタリアの鞄屋の店長になることが決まり、懸念案件だった学校に通うための時間も捻出できることになった。これはもう、学校に行けということだろうなと思い、そのまま先ほどの学校に電話して入ることになったんです。

 

すごい。偶然に導かれた感じですね。

私の感覚としては、偶然ではなく、革に呼ばれている、引っ張られているという感じでした。そう思えるぐらい、とんとん拍子で。


運命的なものがあったんですね。

そうですね。学校で1年学び、その後もう1年、現役の鞄職人さんのところで働きながら教えてもらって。2010年の9月1日に独立しました。

 

 

■自分の仕事で人を喜ばせること。

独立した時には、食方面への未練はなかったんですか?

―なかったです。ものづくりが好きだから、革でやっていこうと思っていました。
昔から、雇われるのに向いていない、というのは分かっていたので、お店を持ちたいという想いはずっとありました。私の中では、自宅でできるということと、自分の仕事で人に喜んでもらえることの2つを満たせることが、仕事において第一なんです。だから、それが当てはまる仕事なら正直なんでも良かった。ただ、たまたま自分がやってきたことで当てはまるのが、革の仕事だったというだけです。

青木さんも同じようなことを仰っていました。人が喜んでくれるのを見ることができれば、どんな形でもいいという。

―そうそう、一緒です

■自分でやっていくこと。

―今、革はもちろん好きでやっているし、昔やりたかった料理教室の形が、革版になって実現もしている。夢が叶っているんです。だから、今まで生きている中で、今が一番楽しいし幸せです。過去に戻りたいとも思わない。そりゃあ苦労はあったけれど、今幸せなら結果としてそれでOKじゃないですか

過去の苦労も、今思えばいい思い出、みたいな。

―そうですね。当時は必死でしたけど。
売り先もお客さんもいない状態で、見込みも全くないのに独立した自分のことを、当時に戻って誉めたいといつも思います。よく思い切った!よくやった自分!って。

普通だったら、独立したくても現実的に考えて諦めてしまう人が多い気がします。

―そうかもしれないですね。
でも私の中では、自分でやりたいという思いがずっとあったので、全て自身で決めていけることに楽しみしかなかったです。不安とかは二の次で、やっと自分の責任で進めていける状況に立てた、という喜びの方が断然大きかった。だからしんどいことも乗り越えられたのかもしれません。

決断して、続ける、という意志の強さが、バンディさんの中にあったのでしょうか。

―意志の強さじゃないんですよね。ただ自分の理想の働き方ができているから、というだけなんです。仕事をしたいときにして、休みたいときに休めて。それが私にとって最高の形。自分が最高だと思える環境を揃えられた、ということが大きいと思います。だから続けてこれたんじゃないかな、と。


二十歳の頃は何をしていましたか?

―社会人になって、働くとはどういうことかを考えていた気がします。
働いてみると、お金を稼ぐことの大事さってわかるじゃないですか。今後自分が何かやっていくとしたとき、どうしたってお金は必要になる。
もし20歳の自分に言いたいことがあるとしたら、もう少しお金を貯めておけ、ということかな(笑)気持ちと体は、自分の頑張りでどうにでもなるけれど、お金だけはどうにもならないですから。

 

■浅草にもまた、導かれて。

アトリエの場所として、浅草を選んだ理由を教えていただけますか。

―独立3年目の頃、自宅兼工房を持ちたいと思い、1年くらいかけて物件をずっと探していました。台東区は、ものづくりへの支援も厚いので、台東区で絞っていましたね。地図も見ず自転車でこの辺りを走って、いい物件を見つけては持ち主に電話することを1年ほど続けました。
なかなか見つからずに諦めかけていたとき、ネットでたまたま今の物件を見つけたんです。来た!と思いました。その物件の住所は詳しく出ていなかったのですが、縁があればきっと見つけ出せると思い、夜中の1時くらいに自転車で探しに出ました。そうしたら、ものの10分くらいですぐに物件の場所が見つかったんです。夜が明けてすぐに不動産屋に連絡しました。内覧に来て、ドアを開けて一歩入ったら、ここでお店をするという内装のイメージが一気に浮かんだんです。この物件に即決しました。

色々な点で、ご縁に導かれている感じがしますね。

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